先生、お元気ですか。
夏もようやく折り返したような気配が感じられます。ズット、限りもなく同じ季節が続くのでは困りますが、終わりが見えて来るのは何事も寂しいものです。日傘の陰の中で汗をカキカキ歩いたり、氷をタップリ浮かべた冷たいお水を飲んだり‥‥そういった小さな楽しみを以て夏を愛でるというのも悪くはありません。
なんて、これではまるで『少女ポリアンナ』の“よかった探し”みたいですネ。近頃の暑さと云ったらそれはもうホントウに殺人的で、間もないうちにヒトゴロシで逮捕されたって不思議じゃありません。それくらいの暑さなんですから、呉れ呉れもご自愛ください‥‥ネ‥‥。
夏と云えば、困るのは虫です。妾、どうしてもお家に出る虫だけは好きません。「蜘蛛は益虫だから」なんて仰有って、先生が研究室の壁を闊歩する蜘蛛を放っていらしたの、ホントウはホントウに気味悪く思っておりましたの。確かに、他のモット気味の悪い虫ののさばることを考えたら蜘蛛の一匹にいてもらったほうがよいのでしょうけれど‥‥でも先生、屋内の蜘蛛が他の虫を喰うところをご覧になったことが有りまして?
「アハアハ。見たことがない。確かに見たことがない。しかし、我が物顔で飛び回るコバエなんかも見たことがないだろう。それこそが、その蜘蛛が常々他の虫を喰って呉れているという証拠なのだ」
文面で物真似するのはどうにも妙ですね。でも、如何にも先生のお考えになりそうなことですわ。不躾な冗談をお許しになって、ネ。
イヤ、折角のお手紙の機会にわざわざ蜘蛛のお話なんてするつもりはなかったのですけれども、それもこれも、いま現在妾のお部屋に蜘蛛が住んでいる所為なのです。
糸のように細長い脚を柔らかく畳んで、何をするでもなく天井から吊られている‥‥トテモ気味の悪い蜘蛛です。ほとんど動かず、肉も少ないように見えるので生気の感じられない虫なのですが、調べてみると「イエユウレイグモ」という似合いの名前がつけられていました。(最近のアイフォーンは写真に写った生物の種類を教えて呉れる機能がついているのです。ご存じでしたか)
イエユウレイグモ‥‥イエユウレイグモ‥‥。
何だか魅力的な名前に感じませんか。妾が彼らの名前を知って以来、部屋の片隅に住む不気味な蜘蛛は「イエユウレイグモ」という名前を得ました。ワザワザ近づくことはしませんし、鼻先に降りて来たときなどは吃驚してひどく声を上げてしまったことなどもありましたが、それでも何となく愛着を持って見守っている今日この頃です。
とは申せ、妾が彼らのことを「イエユウレイグモ」と呼べるようになっても、これは人間が勝手につけたお名前です。当の本人たちはイエユウレイグモとしての自覚とかアイデンティティなんてものはコレッポッチも持ち合わせていないことでしょう。あぁ、なんて一方的なコミュニケーション‥‥! なんて人間本位的な世界‥‥!
自分が如何にヒトとしての主体を無意識に享受していたかということを、この虫一匹の名前を知ったことによって改めて考えさせられることになってしまいました。‥‥けれど、定義とか、共生とか、そういう難しいことを考えるのはやめておきましょう。それは先生のような方のお仕事であって、妾の役割ではありまんからネ。エヘエヘ。
今はただ、彼らが洗っていない脚先で食器の上を這ったり、歯ブラシの上で踊ったりしていないことを祈るばかりです。
左様なら。